『夜の眼を持つ女』が暴く真の「完全悪」――記号、存在証明、そして報道が創り出す“余白”

 

序文:悪事を働かない「完全悪」の謎

小説『夜の眼を持つ女』は、読者を一つの根源的かつ不穏なパラドックスへと引きずり込む。物語の鍵を握る女性「蒼(あお)」は、なぜ具体的な悪事を一切働いていないにもかかわらず、「完全悪」という絶対的な烙印を押されなければならなかったのか。この矛盾こそ、作品の核心を貫く問いである。

本稿は、単なる物語の解説を目的としない。この矛盾を解体し、そこに潜む作者の哲学を読み解くことで、戦後日本の社会構造と個人の実存を巡る問題を、現代に生きる我々自身の課題として批評的に考察する試みである。

本作は、「記号」「存在証明」「報道の責任」そして「社会構造」というテーマの交錯を通じて、我々の現実を驚くほど深く映し出す。蒼という一人の女性を巡る謎は、やがて我々が立つ社会そのものの土台を揺るがす問いへと変貌する。言葉が孕む暴力と、その向こう側に見える沈黙の領土を巡る、思索の旅を始めよう。

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1. レッテルの誕生:いかにして「完全悪」という記号は鋳造されたか

物語の核心に迫るためには、まず「完全悪」という言葉が蒼自身の内面から生まれたものではなく、外部から与えられた空虚な「記号」であったという事実を理解せねばならない。それは、悪意や行動の積み重ねによってではなく、メディアという装置を介した、ある種の共犯関係によって鋳造されたレッテルに他ならなかった。

その生成過程は、単線的なものではない。それは、無自覚な創造と意図的な増幅が織りなす、恐るべきフィードバックループであった。

第一に、記者・堀井自身の言葉がある。彼は、当時の社会に蔓延していた正体不明の不安や新興宗教の噂を背景に、「完全悪の遍在」という言葉を小さな囲み記事で用いた。後に彼が「抽象は便利で、責任を遠くに置ける」と内省するように、これは社会に漂う漠然とした悪意を捉えるための、責任の所在を曖昧にする便利な抽象語として、無自覚に生み出された。

第二に、週刊誌の見出し『完全悪の微笑』である。これはゴシップ的関心から、堀井が生み出した抽象概念に「蒼」という具体的な顔を与え、彼女をセンセーショナルな消費対象へと変貌させた。

そして決定的なのは第三の段階である。堀井は、自らが創造した抽象語が、週刊誌によって蒼という個人に結びつけられたことを知りながら、そのイメージに**「乗っかった」**のである。彼は蒼と接触し、取材を続けることで、そのイメージをさらに増幅させる記事を書き続けた。ここに、無自覚な創造主から意識的な共犯者への、彼の決定的な転落がある。「完全悪」という記号は、こうして具体的な実態を欠いたまま、しかし確固たる顔をもって社会に流通し始めたのだ。

この記号の生成過程は、現代社会における安易なラベリングやフェイクニュースの問題と地続きである。言葉がいかにして現実を歪め、一人の人間を社会的な役割へと閉じ込めていくのか。その問いこそが、物語の次なる深淵へと我々を導く。

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2. 存在への痛切な跳躍:なぜ蒼は「記号」になることを選んだのか

なぜ蒼は、この負のイメージをまとった記号を拒絶するのではなく、自ら進んで引き受けたのか。この最も深い謎にこそ、物語の痛切な核心が隠されている。彼女の選択は、単なる諦めや自己破壊ではない。それは、サルトル的な実存の跳躍であり、存在を証明するための唯一にして最後の戦略であった。

その背景には、彼女が置かれていた「存在するのに、存在しない」という、カフカ的な絶望の状況がある。

  • 無戸籍という状態 蒼は、戦争の混乱の中で戸籍を失った「誰でもない女」であった。法的にその存在を証明する術を持たず、社会システムからあらかじめ排除されていた彼女は、「いるのに、いない」という透明な存在として、社会の周縁を生きることを余儀なくされていた。
  • 実存的承認への渇望 この「無(nothingness)」の状態は、彼女を根源的な渇望へと駆り立てた。それは、他者から認識され、自らの存在を確かめたいという**「実存的承認を求める過酷な探求」**に他ならない。社会から無視され続ける『無』の状態から、たとえ『悪』としてでも認識される『有(being)』の状態へ移行すること。それこそが、彼女にとっての悲痛な実存的跳躍だったのである。

この文脈において、彼女が「完全悪」という記号を引き受けた行為は、驚くほど論理的な帰結として浮かび上がる。社会が渇望する役割に自らを収めることで、彼女は初めて社会から「見られる」存在となり得たのだ。彼女は、堀井に対して自覚的にその選択を告げる。

「あなたが言ったのよ。紙面のどこかで。『完全悪は、具体ではない。流通する記号だ』って。だから、私は記号になったの。便利だったのよ」

蒼のこの痛切な跳躍は、しかし、真空の中で行われたわけではない。それは、社会構造の中にぽっかりと空いていた「スケープゴート」という役割、社会全体が埋めたがっていた空席へと、完璧に適合するものであった。

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3. スケープゴートとシステム:真の敵としての社会構造

物語の視点を蒼という個人から、彼女をとりまく社会全体へと広げるとき、我々は物語が告発する真の「完全悪」の正体に直面する。蒼は社会の病理を映し出す「鏡」であり、物語が指し示す敵は、彼女個人ではなく、彼女をその役割へと追いやった社会システムそのものである。

ここで我々は、戦後社会が無意識下に抱えた構造的負債を清算するために要請した、古典的なスケープゴートの力学に直面する。戦後の混乱が残した傷跡、新興宗教の台頭がもたらす不信感、そして高度経済成長の影で人々が抱えていた漠然とした不安や罪悪感。これらの名指しがたい負の感情の受け皿として、「完全悪」という分かりやすい悪の象徴は、実に都合の良いものであった。

そして、社会のこの無意識の要請と、蒼個人の実存的渇望は、恐るべき精度で符合した。社会が求めるスケープゴート(贖罪の山羊)という空席と、存在の承認を求めていた「誰でもない者」としての蒼。両者は、悲劇的なまでに完璧な一対だったのである。彼女は社会的に規定されたアイデンティティを持たないがゆえに、あらゆる不安を投影できる白紙のスクリーンとして機能してしまったのだ。

このとき、堀井が書いた「完全悪の遍在」という言葉は、凄まじい皮肉を帯びてくる。彼が意図した意味とは全く異なる次元で、その言葉は「真の完全悪は特定の個人ではなく、社会システムとして遍在している」という真実を突いていたのだ。悪は特定の誰かではなく、システムとして我々の中に、どこにでも存在している。この構造的悪は、言葉を流通させる報道機能と分かちがたく結びついている。

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4. 言葉の重さと見えない“余白”:ジャーナリズムへの問い

本作は、もう一人の主人公である記者・堀井の変容を通して、ジャーナリズム、ひいては言葉を扱うすべての者に根源的な問いを突きつける。彼は、傍観者から当事者へと変化する過程で、自らが紡ぐ言葉の重さと、それが生み出す見えない「余白」の存在に気づかされていく。

当初、堀井の記事は、蒼に「きれいね。きれいに切る。切り離す。切断面がまっすぐ過ぎて、血が出ない」と評される。それは、現実を安全な距離から裁断し、読者が安心して消費できる物語へと加工するジャーナリズムの一側面を的確に言い当てている。しかし、蒼との出会いは、彼に自らの言葉が持つ暴力性と、その使い手としての責任を自覚させる。

その変容のクライマックスで、蒼は堀井に最後のメッセージを残す。

――あなたの紙面の白いところは、誰かの余白です。

この「余白」という言葉が象徴するもの、それは単なる紙の上の空白ではない。それは、報道という公式な記録からこぼれ落ちた人々、語られなかった物語、そして蒼のような社会から抹消された存在そのものである。メディアが光を当て、切り取る領域の外側には、常に声なき者たちの広大な「余白」が広がっている。蒼はその余白に存在し、その重みを堀井に、そして我々読者に突きつけたのだ。

この言葉を受け止め、途方に暮れる堀井に、上司の古山デスクは新たなジャーナリズムの倫理を提示する。「結べないなら、それを見せる。それも記事だ」。これは、安易な結論で物語を閉じるのではなく、解決できない社会構造の矛盾や複雑さそのものを提示し続けるという、ジャーナリストとしての新たな覚悟の表明であった。この言葉こそが、堀井が自らの罪を引き受け、蒼が示した「余白」を見つめ続けることを可能にする、専門的かつ倫理的な鍵となるのである。

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5. 名前の継承:「蒼」は一人ではなかったのかもしれない

物語の終盤、我々は最もミステリアスな核心に触れる。「蒼」という存在が、一個人の物語を超えた、より壮大な悲劇のサイクルの一部である可能性が示唆されるのだ。彼女の名前にこそ、その謎を解く鍵が隠されている。

「蒼」という名前が持つ象徴性は、三つの事実によって浮かび上がる。

  • 戸籍に使えない漢字:草冠に倉と書く「蒼」という文字は、制度上、戸籍に登録できない。この事実は、彼女(たち)が常に社会制度の外側に置かれた存在であることを、その名自体が象徴している。
  • 「名前を返す」という行為:地方の港町で明らかになる「返却」の印。これは、個人が背負っていた役割や負債を、あるべき場所へ返すための儀式的な行為であった可能性を示唆する。
  • 時代を超えて現れる記録:役場の職員が語る「違う人の姿で」同じ名前が現れては消えるという証言は、「蒼」が特定の個人名ではなく、社会の歪みの中で受け継がれてきた役割、一つの**「機能」あるいは「称号」**であるという壮大な仮説を提示する。

ここで、蒼が語った「祈りは、いつか請求書になる」という謎めいた言葉が、その全貌を現す。社会の歪みが生み出す人々の漠然とした願いや、未解決の問題という「祈り」。それがやがて、誰かが支払わねばならない「請求書」となる。「蒼」という称号を継承する者たちこそ、その請求書を永遠に支払い続けるために社会システムが生み出した、悲劇的な機能そのものではないか。

この物語は、決して過去のものではない。それは、今この瞬間にも社会の片隅で続いているかもしれない、不可視のサイクルを我々に突きつけているのだ。

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結論:私たちの時代の「完全悪」と「余白」

『夜の眼を持つ女』が問いかけるテーマは、昭和という時代を超え、現代社会に生きる私たちに鋭く突き刺さる。蒼という一人の女性を巡る物語は、最終的に我々自身の社会と、そこに存在する見えない暴力についての省察を迫るのである。

現代においても、メディアやSNSによって、実態のない「記号」としての悪が日々作り出されてはいないだろうか。そして、社会の漠然とした不安の受け皿として、特定の個人や集団がスケープゴートにされてはいないだろうか。堀井が無自覚に放った言葉が蒼を縛り付けたように、私たちの言葉もまた、誰かを不可視の檻に閉じ込めてはいないだろうか。

私たちが日々接する情報の中に、気づかれずにいる「余白」は本当に存在しないのか。その「余白」に追いやられている声なき人々はいないのか。蒼が堀井に突きつけた問いは、今もなお私たち一人ひとりに向けられている。

この小説の真のレガシーは、読後も心に残り続ける「余白」の存在に気づかせ、それを見つめ続けようとさせる力にある。自らが立つ社会の光と影、語られる物語と語られない沈黙。その両方に誠実に向き合うこと。それこそが、この物語が我々に託した、重く、そして希望ある宿題なのである。

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