小説『僕という物語』に学ぶ、”正しさ”をめぐる私たちの終わらない対話

 

導入:完璧なルールは、なぜ私たちを救えないのか?

小説『僕という物語』は、一見すると24世紀の未来を描いた物語です。しかし、その本質は、単なる未来予測やSFの枠を遥かに超え、現代社会が抱える「ルール」や「正義」をめぐる根源的な問いを映し出すための、壮大な思考実験と言えるでしょう。物語の舞台は、かつて「新興国」と呼ばれたアフリカ、南米、インド、オセアニアが新たな国際秩序を築き上げる世界。そこで繰り広げられるのは、より良い社会を築こうとする交渉官たちの知的で、そして人間的な葛藤です。本稿は、この物語を深く読み解くことを通じて、私たち自身の社会が直面するジレンマに迫ります。不完全な人間が作る社会において、本当に”良い”ルールとは一体何なのでしょうか?

このエッセイは、物語の登場人物たちが掲げるそれぞれの「正義」――その哲学の衝突を丹念に解き明かし、それを現代社会の具体的なジレンマと接続する試みです。彼らの対話は、私たち自身の社会観を静かに、しかし確実に揺さぶる力を持っています。完璧な制度の夢と、こぼれ落ちる個人の現実。その狭間で、私たちはどのような物語を紡ぐべきなのか。ページをめくるように、その思索の旅を始めましょう。

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1. 最初の衝突:「目の前の命」か、「見えない未来」か

物語の最初の大きな対立軸は、アフリカ連合のナレディ・カガメが体現する「人道的な正義」と、南米連合のホアナ・メネンデスが守ろうとする「制度的な正義」の衝突です。このジレンマは、24世紀の未来に限った話ではありません。それは、緊急の人道支援と官僚的な手続き、個人の自由と公衆衛生のための規制といった形で、私たちの社会でも常に発生している普遍的な問いそのものです。

ナレディ・カガメの正義:「人が住める道」を守るために

ナレディの行動原理は、祖母から受け継いだ「今度は、消えない道を作る。人が住める道。道が、町になる道」という強い遺志に根ざしています。鉱山の盛衰と共に共同体が消滅するのを目の当たりにした祖母の悔恨は、彼女にとってインフラを単なる輸送路ではなく、文字通り「命を守る場所」として捉える哲学の原点となりました。その思想は、キリンの群れが横断するために貨物列車を躊躇なく2分間停止させるというエピソードに象徴されています。経済合理性よりも、目の前の命が優先されるのです。

この哲学に立てば、彼女がルールを破ってまで凍える子どもたちのために冷却ユニットを「善意で先回り」して配送したのは、論理的な必然でした。彼女にとっては、制度のルールよりも、目の前で失われかねない命を救うことこそが、揺るぎない正義なのです。

ホアナ・メネンデスの正義:「善意が制度を殺す」という記憶

一方、通貨システムの設計者であるホアナにとって、ナレディの行動は未来の共同体を破壊しかねない許されざる行為です。彼女を制度の番人たらしめているのは、「善意が制度を殺す」という過去の強烈なトラウマでした。故郷の町で、善意で配られた医薬品が流通記録から消え、誰も罰されることなく、市民の制度への信頼が静かに蒸発してしまった。その結果、「翌年の投票率は三割を切った」という、共同体の静かな崩壊を目の当たりにしたのです。

彼女にとって、たとえ善意によるものであっても、一つの例外は制度全体の信頼を蝕む蟻の一穴です。ナレディが救った「目の前の命」の裏側で、ホアナは、制度が崩壊した未来で危険に晒されるであろう「顔の見えないより多くの人々」の姿を見ているのです。

かくして、二つの正義は、共に「弱者を守る」という目的を掲げながらも、致命的にすれ違う。ナレディが「今、ここにいる弱者」の命に焦点を合わせるのに対し、ホアナは制度が崩壊した未来に現れるであろう「顔の見えない弱者」を守ろうとする。この時間軸と視野の絶望的な断絶こそが、物語を安易な解決から遠ざけ、より深い哲学的次元へと押し進める強力なエンジンとなるのである。

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2. システムへの二つの処方箋:「完璧な設計図」と「しなやかな土壌」

前章で提示された「目の前の命」か「見えない未来」かというジレンマに対し、物語は二人の思想家を通じて、対照的な二つの処方箋を提示します。インドの交渉官キラン・メヘタが目指すのは、バグのない完璧なシステム。対して、南米の「遅延の技術者」アマイア・サルガドが設計するのは、人間的な不完全さを許容するしなやかなシステムです。彼らの対立は、現代におけるアルゴリズムによる統治と、人間的な裁量を残したアナログな調整の対立にも通じる、重要な視点を提供してくれます。

キラン・メヘタ:完璧な秩序の建築家

キランを突き動かすのは、編集者であった祖父の後悔から生まれた強迫観念にも似た使命感です。祖父は、自らが関わった条文の定義が曖昧だったために水不足の被災者を生んだことを、「文言に、穴があった。穴から、人が落ちた」と悔やみ続けました。この記憶が、キランを「文言の穴を埋める」ことに執念を燃やす、完璧なルールの設計者にしたのです。

ナレディとホアナの対立を前に、彼が提案する解決策は「例外を報告する窓」の創設です。これは、違反を罰するのではなく、例外が起きた事実をシステムに報告させ、データを蓄積することでルールそのものを改善していく、という極めて知的で生真面目なアプローチです。まるで社会全体のソースコードを修正し続けるプログラマーのように、彼はルールそのものを完璧に近づけようとします。このハッカーにも似た発想は、制度の完全性を守護するホアナの哲学とは本来、水と油の関係にある。一つは制度を内側からパッチを当てて修正し、もう一つは外部からの侵食を断固として拒絶するからです。そして、その性善説に根差した設計は、悪意ある者が「私のケースは例外だ」と主張し始めれば、システム全体を崩壊させかねない巨大な抜け穴となる危うさも内包しています。

アマイア・サルガド:人間的な配分の技術者

アマイアの哲学は、キランとは正反対の原体験から生まれています。若き日に医薬品の配送ルートを最適化し、配送時間を3日から1日に短縮するという輝かしい「成功」を収めた彼女。しかし、その結果は悲劇でした。薬は現場に届きすぎて管理できずに腐敗し、一方で最適化ルートから外れた小さな町には全く届かなくなったのです。この「成功がもたらした大失敗」から、彼女は「速さは誰かを置き去りにする」という哲学を確立します。

彼女が生み出した「遅延の技術」や「季節のカレンダー」は、効率至上主義への明確なアンチテーゼです。港に届く荷物の優先順位を支払額ではなく、寒波前の羊毛や祭り前の果物といった人々の生活リズムに合わせて決定する。これは、意図的に遅延をシステムに組み込むことで、「待つことが得になる」ように社会を再設計し、より公平な分配を実現しようとする、人間中心の思想なのです。

キランが目指すのが、コードのように厳格で予測可能な「統治の科学(science of governance)」であるとすれば、アマイアが実践するのは、人間の不完全さと生態系のリズムを織り込んだ「調整の技術(art of moderation)」です。物語が問うのは両者の優劣ではなく、むしろ、この二つの思想が共存しうる社会のOS(オペレーティング・システム)そのものなのである。

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3. 第三の道:すべてを包む「コモンズ(共有財)」という思想

これまでの二元論的な対立を超越し、物語に深遠な広がりを与えるのが、オセアニアの船乗りタネ・ラウが体現する「コモンズ(共有財)」という思想です。彼の哲学は、現代社会が直面する地球環境問題やデジタル空間のガバナンスを考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれます。

「風は、所有できない」という実践知

タネの行動原理は、「風は、所有できない」というシンプルな原則に集約されます。これは単なる理想論ではありません。風や海のような共有財産(コモンズ)から生まれる利益も、そこで発生する問題も、すべては「港」という共有の場で、合意された手続きに則って分配・解決されるべきだという、極めて実践的な社会運営の知恵なのです。ナレディの「善意の先回り」が問題になった時、彼はこう言います。

「誰が善意であっても、風は誰のものでもない。港はみんなのものだ。ならば、善意は、港に置いてから分けよう

これは、個人の動機を否定するのではなく、その是非を判断する前に、まず共有空間のプロセスを優先するという強い意志の表れです。彼は個人の英雄的行為よりも、共同体で合意された手続きそのものを神聖視しているのです。

言葉が無力化した先にある、戦略的コミュニケーション

物語のクライマックス、どの国の制度にも属さない「船籍のない人々」が現れ、過去の裏切りから救いの言葉を一切信じなくなった時、タネは驚くべき行動に出ます。自らの足にロープを結び、荒れた海に飛び込むのです。タネの行動は、単なる自己犠牲のパフォーマンスではない。それは、言語が信頼を失った交渉の場において、唯一信頼可能なメディア、すなわち「共有された物理的リスク」そのものを交渉のテーブルに突きつけるという、究極のコミュニケーション戦略なのである。

解釈を広げ、すべてを包む

このタネのコモンズ思想は、アマイアのアイデアと響き合います。アマイアは、制度からこぼれ落ちた人々を「違法な存在」として排除するのではなく、「居場所の季節外れ」という新しい解釈で捉え直すことを提案します。これは、既存のルールを破壊するのではなく、その解釈を広げることで、より多くの人々を包摂しようとする試みです。対立する正義をどちらも壊すことなく、より大きな物語の中に位置づける。これこそが、本作が提示する解決策の核心なのです。

ルールやシステムだけでなく、私たちが紡ぐ物語そのものさえもが、誰もがアクセスし、書き継いでいくことができる「コモンズ」になり得る。物語は、その最も深遠なテーマへと私たちを導いていきます。

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4. 私たちが紡ぐ物語:継承される一人称「僕」

このエッセイの結論として、小説のタイトル『僕という物語』に込められた真の意味を解き明かさなければなりません。物語の最後に明かされるこのメタ構造こそ、作者が提示する社会に対する最終的な思想的表明なのです。

物語の語り手である「僕」は、特定の個人ではありません。それは、記録用の「端末を持った者に宿る、移動する視点」でした。物語の序盤、読者の多くがキランの視点だと信じて読んでいた「僕」は、いつしかアマイアに、タネに、そしてついには港の籍を持たない難民のリナにさえも宿り、それぞれの場所から物語を書き継ぐ主体となるのです。

しかし、この見事な仕掛けには、一つの批評的な問いを立てることが許されるだろう。作者は、なぜこの「移動する視点」の正体を、物語の最終盤までサプライズとして温存したのか? ソースコンテキストの分析にあるように、もし視点が切り替わる瞬間にバグのような不連続性を差し込んだり、登場人物が自らの端末に知らないはずの記憶の断片を発見したりといった伏線が序盤から散りばめられていれば、この謎は物語を貫くもう一つの推進力となり得た。その場合、結末のカタルシスは単なる驚きから、全ての違和感が一本の線で繋がる深い納得へと昇華されたかもしれない。

この構造が持つ哲学的な意味は、極めて重大です。アマイアが語った「ほどけない結び目は、作れないほうがいい。ほどけるから、結び直せる」という言葉を借りるならば、この物語が提示する「良い社会」とは、完璧な答えを持つ社会ではありません。それは、問題が起き、結び目がほどけるたびに、多様な立場の人々が対話し、共同で物語を「結び直し」続けることができる社会の姿です。物語の語り手が一人に固定されていないという構造自体が、その思想を体現しているのです。

だからこそ、この物語は全ての問題が解決するような安易なハッピーエンドを拒絶します。クライマックスの後も課題は山積みのまま、ムトゥンビが「では、もう三日、待とう」と決断するように、保留の形で日常は続いていきます。これは、支配や覇権といった壮大な言葉ではなく、「分配、遅延、窓、風、二分、余白」といった、地味で手触りのある言葉によって語られる「維持と調整」のプロセスこそが、社会の本質であるという世界観を象徴しているのです。

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結び:あなたの物語の、次の空白に

小説『僕という物語』が、複雑化する現代に生きる私たちに投げかけるメッセージは明快です。それは、決して間違いを犯さない完璧な制度を夢想することではなく、人間の不完全さを前提とした上で、問題が起きた時に粘り強く対話し、調整し続けるための「良い手続き」をこそ追求すべきだという思想です。

彼らが手に入れたのは「最終的な答え」ではなく、これからも考え続けるための「窓」であり、「季節外れの定義」であり、「余白」でした。良い社会とは、完成された状態ではなく、終わりなき修繕のプロセスそのものの中に宿るのかもしれません。

この物語は、私たちに最後の問いを投げかけます。この世界の物語もまた、誰もが手に取り書き継ぐことができる共有された一冊なのだとしたら、あなたはその次の空白のページに、どのような一行を書き加えますか?

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