分類という両刃の剣:清少納言の『知恵』とポーの『暴力』が映し出す現代社会の肖像

 

言葉によって世界を切り分けるという営みは、人間の根源的な知的欲求である。混沌とした現実の中から共通項を見出し、名前を与え、境界線を引く。この分類という行為は、世界を照らし出す「知恵」の光なのか、それとも個の独自性を抹殺する「暴力」の刃なのか。この古くて新しい問いの深淵を覗き込むために、私たちはここに象徴的な一つのディベートを召喚したい。現代社会に流通する「陽キャ・陰キャ」という分類をめぐり、平安の宮廷から現れた希代の観察者・清少納言と、人間の深淵を探求し続けたゴシック文学の巨匠エドガー・アラン・ポーが言葉を交わしたという、架空の記録である。本稿では、この時空を超えた対話を通じて、分類行為が持つ光と影の二面性を解き明かし、それが現代に生きる我々の自己認識や社会構造に、いかに深く根ざしているかを考察する。

分類という行為は、第一に、混沌とした世界に秩序と美を見出すための、洗練された「知恵」として機能する。この知的作法を体現するのが、清少納言の思想である。彼女の哲学の根幹には、代表作『枕草子』で示される「をかし」という美意識が存在する。「うつくしきもの」「にくきもの」と世の事象を書き分けたように、彼女にとって分類とは、世の森羅万象が持つ「らしさ」や「趣」を浮き彫りにするための、極めて雅びやかな営みであった。それは、世界を整理し、それぞれの輝きを認めて愛でるための**「愛ある知恵」だったのである。この「愛ある知恵」の有用性は、彼女がディベートで提示した二つの巧みな論理に集約される。第一に、分類は人間関係を円滑にするための「適材適所」を見抜く実用的な物差しとして機能する。春の曙のように場を明るくする「陽」の者と、雨の日に物思いにふけるのにふさわしい「陰」の者。それぞれの個性が最も輝く場所を提供し、無用な衝突を避けるための、高度な配慮なのである。さらに彼女は、ポーが投げかける「分類は牢獄だ」という批判に対し、それを真逆の機能を持つ保護的な道具として再定義する。分類とは、不適切な干渉からその人らしさを守るための、優雅な間仕切り、すなわち「几帳」や「御簾」のようなものだ、と。分類があるからこそ、その人の「領分」が尊重され、人は安心して自由に振る舞えるのだ。彼女の論理は、彼女が生きた平安の宮廷という、いわば「理想の庭園」**において完璧に機能する。そこは、美意識を共有する人々によって手入れされた文化的な空間であり、「陰」の繊細な美しさも「陽」の華やかな輝きも、ともに「をかし」として鑑賞されるという共通のルールが存在した。このような世界では、分類は他者への敬意と配慮から生まれる、花を愛でるための優しい「知恵」となり得るのである。しかし、この雅びやかな理想論が、なぜ現代においてその輝きを失い、暗い影を落とす危険性を孕むのか。私たちは次に、この光が生み出す深淵へと目を向けなければならない。

知恵の道具であるはずの分類は、ひとたびその前提が崩れると、個人の尊厳を深く傷つけ、魂を歪める「暴力」へと容易に転化する。この危険性を告発するのが、エドガー・アラン・ポーである。彼の作品に通底するゴシック的な人間観は、人間の心に潜む狂気や恐怖、矛盾といった、単純に分類不可能な「闇」こそが人間の本質であるという信念に基づいている。彼にとって、人間は光と闇が混じり合う「迷宮」であり、その**「魂の流動性」と、一人ひとり違うはずの「唯一無二の怪奇」は、単純なラベル貼りを本質的に拒絶する。したがって、分類とは「生きた心を死んだ標本に変える」行為に等しい、知的な暴力なのである。彼が提示した分類の害悪は鋭い。第一に、人の心は陽と陰が刻一刻と移り変わるものであり、それを二つの箱に無理やり押し込めることは、魂の持つ無限の可能性を凍結させる行為に他ならない。第二に、現代社会では「陽キャ=善、陰キャ=悪」という明確な価値の序列が生まれており、この物差しはもはや中立な道具ではなく、常に弱者を傷つけ、その結果として「血で染まっている」と彼は断じる。そして第三に、一度ラベルを貼られると、その人の複雑な内面は無視され、本人すら自分の可能性を閉ざしてしまう。彼の強烈な比喩を借りれば、分類は理解の入り口などではなく、一度閉じられれば二度と開かない「牢獄の扉」であり、魂を「生きたまま棺に閉じ込める」**行為なのだ。この怒りは、ディベートの中で彼が「典型的な陰キャ」と指摘された際に爆発する。「私は『陰キャ』などではない。私はエドガー・アラン・ポーだ」。この叫びは、単なる反論ではない。それは、社会的なカテゴリー(陰キャ)と、固有名詞(エドガー・アラン・ポー)との間にある、根源的な断絶を象徴している。前者は代替可能な一般項であり、個人の内面を消去する。後者は、誰とも交換不可能な、固有の歴史と深淵を持つ唯一無二の存在の証である。この魂の抵抗は、分類という行為が孕む「人間の抹殺」という暴力性への、痛切な告発に他ならない。

光と影のように対立する二つの論理は、なぜここまで交わらないのか。その根源的な理由は、彼らが立つ「世界」そのものの違いにある。言葉という道具が知恵の光となるか、暴力の刃となるかを分かつのは、それが使われる社会的文脈なのだ。清少納言が語るのは、美意識が共有された高コンテクスト社会、すなわち**「理想の庭園」の世界である。そこでは陰陽双方の美が等しく評価され、分類は文化を豊かにする「知恵」として機能した。一方、ポーが告発するのは、共通の美意識が失われ、価値観が多様化し競争が激化した低コンテクスト社会、すなわち「冷たい荒野」**の現実だ。そこでは、清少納言の雅な知恵は、弱者を切り刻み序列を決定づける「刃」へと変質する。「陽キャ」という言葉は強者の証となり、「陰キャ」というラベルは敗者の烙印となるのである。この「冷たい荒野」の現実は、現代の我々の社会、特にSNS環境においてより先鋭化している。アルゴリズムは我々をフィルターバブルに閉じ込めてラベルを強化し、「いいね」やフォロワー数といった定量的な指標は、「陽」と「陰」の間に残酷なまでの価値の序列を生み出す。そして、絶え間ない自己演出の圧力は、人々を単純化されたカテゴリーへと自ら押し込めていく。このディベートは、私たち一人ひとりに対する鋭い問いかけである。「君が生きるこの世界は、美しい花が咲く『庭園』だろうか?それとも、凍える風が吹く『荒野』だろうか?」この問いは、分類の問題が他人事ではなく、自らが生きる社会の性質を直視し、その中で言葉をどう使うべきかを問う、私たち自身の物語であることを示唆している。

この架空のディベートの勝者は、より現代の現実に根差していたエドガー・アラン・ポーと判定された。しかし、この議論から我々が得るべき本質は、単純な勝敗を超えたところにある。ポーの警告する「現実の闇」、すなわち言葉が容易に人を傷つける凶器になりうるという痛みを、私たちは決して忘れてはならない。しかし同時に、清少納言が示した「理想の光」もまた、無価値ではない。他者を尊重し、それぞれの「らしさ」や美を見出し、認め合おうとする彼女の視点は、私たちが目指すべき社会の姿を示唆している。この「理想の光」と「現実の闇」の両方を併せ持つことこそが、我々が得るべき最も重要な学びである。結論として、問題は分類という行為の是非そのものではない。問題の核心は、我々が理想の「庭園」ではなく、冷酷な「荒野」に生きているという現実を自覚した上で、この強力な両刃の剣をいかに自覚と責任を持って使うかという、倫理的な問いにあるのだ。言葉の剣を賢明に使いこなすために不可欠な態度とは何か。それは、階層化の暴力やラベルの牢獄といった、この「荒野」がもたらす害悪への解毒剤となるものでなければならない。その解毒剤とは、清少納言が求めた、陰の美しさをも理解しようとする**「鑑賞眼」であり、ポーがその魂で体現した、分類不可能な「個の特異性への畏怖と共感」**に他ならない。世界を切り分ける言葉を振るうとき、その切っ先が他者と、そして自分自身の魂を傷つけていないかを常に自問し続けること。その思索的な態度こそが、この荒野を生きる我々に課せられた、重く、そして希望ある責任なのである。

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