「言葉の崖」に立つ私たち:ヴィトゲンシュタインの「沈黙」とナーガールジュナの「空」から現代社会を読み解く
1. 序論:私たちは言葉とどう向き合うべきか
言葉は、この世界をどこまで語れるのだろうか。この哲学の根源的な問いは、いわば地図作りの物語だ。私たちの使う言葉という地図は、世界という広大な領域を、一体どこまで正確に描き出せるのか。
この問いに対し、私はここに、全く異なる時代と場所から、驚くほど深く、しかし決定的に異なる応答を携えた二人の思想家を召喚したい。一人は、西洋分析哲学の礎を築いたルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン。彼は、言語という地図の精度を極限まで信じ、その描画可能な範囲と不可能な領域との間に、厳密な「境界線」を引いた meticulous cartographer(几帳面な地図製作者)である。もう一人は、東洋仏教に「空」の思想を確立したナーガールジュナ(龍樹)。彼は、地図が描かれている大地そのものが、本当に揺るぎないのかと問い、その境界線という概念自体を消し去ることで、思考の絶対的な自由を目指した ground dismantler(大地解体者)だ。
本稿の目的は、彼らの思想を単に解説することではない。この私が仕立てた知的対決を舞台に、言葉が氾濫する現代社会における我々の認識やコミュニケーションのあり方を、根源から問い直すことにある。ヴィトゲンシュタインが引いた境界線と、ナーガールジュナが溶かした大地の狭間で、私たちは普段自明視している「言葉」や「事実」が決して絶対ではないという、スリリングな視座を獲得するだろう。この知の旅路は、最終的に私たち自身が言葉とどう向き合い、どう生きるかという切実な問いへと、鋭く還ってくるはずだ。
2. 境界線の建築家:ヴィトゲンシュタインが描いた「事実」と「沈黙」の世界
ヴィトゲンシュタインがなぜ言語にこれほど厳密な境界線を引こうとしたのか。その戦略的重要性を理解するには、当時の哲学が「絶対者」や「精神」といった曖昧な概念を巡る形而上学的な混乱の霧に覆われていた状況を想起せねばならない。彼の哲学は、単なる思弁の遊戯ではない。それは、言語の誤用という病に対する、ラディカルな治療法だったのである。彼は、言語という地図が何を正しく描き得るかを徹底的に明らかにすることで、哲学の領域から無意味な言説を追放しようとしたのだ。
彼の初期思想の核心をなすのが、「言語の像理論(Picture Theory)」だ。この理論は、以下の二つの要点に集約される。
- 世界の定義: ヴィトゲンシュタインによれば、世界とは単なる「物の集まり」ではない。そうではなく、「事実の総体」である。「机がここにある」といった、成立している事柄(事実)の連なりこそが世界なのだ。
- 言葉の機能: そして、言葉(命題)は、その事実を写し取るための論理的なモデル、すなわち「像(Picture)」としての機能を持つ。楽譜が音楽を、地図が地形を写し取るように、言葉は事実と論理的な構造を共有することで、世界を正確に描写するのである。
しかし、この精緻な理論は同時に、言語の決定的な限界をも白日の下に晒す。言語が事実を写し取れるのは、両者が共通の「論理形式」を持っているからだが、その「写す仕組み」自体を言葉で語ることはできないからだ。同様に、倫理、美、神秘といった価値の領域は、世界の中で起きている「事実」ではない。それらは、事実を記述するための言葉の網の目から、どうしてもこぼれ落ちてしまう。
ヴィトゲンシュタインは、これらの「語り得ぬもの」は、言葉で「語られる」のではなく、我々の行動や態度によって「示される」べきものだと考えた。ここから、彼の哲学を象徴する、あの有名な結論が導き出される。
「語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。」
この「沈黙」は、思考停止や敗北主義を意味しない。むしろ、それは倫理や美といった本当に大切なものを、不適切な言葉による汚染から守るための、積極的な「倫理的態度」なのだ。科学的言説(事実)がすべてを支配するかのような現代社会において、人生の意味(価値)という領域を区別し、尊重する彼の知的規律は、今なお重要な示唆を与えてくれる。
もしヴィトゲンシュタインが理性の縁に meticulously a fence(細心の注意を払って柵)を建てたのだとすれば、ナーガールジュナは、それを乗り越える梯子ではなく、その柵が立つ大地そのものが決して堅固ではなかったという、静かなる宣告と共に現れる。
3. 大地の解体者:ナーガールジュナが照らし出す「空」と「縁起」の世界
ナーガールジュナのアプローチは、ヴィトゲンシュタインのように境界線を引くことではなく、境界線を引くための土台そのものを問う、よりラディカルなものである。彼の思想の核心には、すべての事象は相互依存(縁起)によって生起し、それ自体で独立して存在する実体(自性)を持たないという「空(シューニャター)」の思想がある。ヴィトゲンシュタインが築いた精緻な論理体系の根幹を、彼は容赦なく揺さぶりにかかる。
その尋問は、三つの鋭い問いとして提示される。
- 「事実」の自立性への問い: 「机がある」という事実は、私たちが「机」や「ある」といった言葉で世界を切り分け、認識するからこそ「事実」として成立するのではないか。言語による分節なしに、それ自体として独立して存在する「事実」などあるのだろうか。
- 対応関係への問い: 言葉(像)と世界(原型)が一致していることを、一体誰が、どのような第三者の視点から確認できるというのか。我々は言語という地図の内側にしかいられないのだから、その対応関係を確証する絶対的な根拠はないのではないか。
- 自己矛盾への問い: 「語り得ぬものがある」と語る行為自体が、まさに言語行為ではないのか。その線を引いた時点で、あなたはすでに「語り得ぬもの」を言葉の網にかけてしまっている。それは自縄自縛ではないか。
この視座は、現代社会における固定観念や原理主義に対する強力な解毒剤となり得る。自らの信じる「正義」や「真理」、あるいは自他のアイデンティティすらも、絶対的なものではなく、相互依存の関係性の中で成り立つ「空」なるものであると理解すること。それは、不寛容や対立を乗り越えるための、深く、そして解放的な視座を提供してくれる。
ナーガールジュナの思想が目指すのは、ある結論に安住することではない。それは、語る/語らない、内/外といった、あらゆる概念的対立、すなわち言葉が生み出す無益な増殖(戯論)そのものから解放された静けさ(寂滅)である。この根本的な態度の違いは、二人の思想の核心的な対立点である「梯子の比喩」をめぐる解釈で、最も鮮明に浮かび上がることになる。
4. 核心の対峙:「梯子を捨てる」という行為の二つの意味
ヴィトゲンシュタインが自らの哲学の限界を示すために用いた「梯子の比喩」は、二人の思想の決定的な違いを浮き彫りにする最大の焦点である。ここで、西洋分析哲学の基礎が、古代東洋の叡智によって根底から揺さぶられる知的ドラマが展開される。ヴィトゲンシュタインは、自著『論理哲学論考』の命題群が、読者を言語の限界の理解へと導いた後には捨て去られるべき道具(梯子)であり、目的を達成した後は不要になる「解明としての無意味」なのだと述べた。
この比喩に対し、ナーガールジュナは核心を突く反駁を突きつける。「あなたは、梯子を本当に捨てたのですか?」と。ナーガールジュナは、ヴィトゲンシュタインが梯子を捨てたのではなく、「示す」という名の別の梯子に乗り換えたに過ぎないと喝破する。「語る/示す」という区別を立てる行為自体が、高度な言語活動ではないのか。さらに、彼が沈黙によって守ろうとした「価値」や「神秘」という領域。その聖域を守ろうとする態度そのものが、執着ではないのか。
ナーガールジュナは、梯子を問うのではない。彼は、梯子がかけられている大地そのものを溶かし去る。彼の立場は、次の言葉に力強く集約されている。
私の空は、梯子を捨てる手も、捨てた後に立つ大地も、すべてを空じる。
同じ「梯子を捨てる」という行為を巡りながら、両者の目指す場所は全く異なっていた。その違いは、以下の表で明確になる。
観点 | ヴィトゲンシュタインの立場 | ナーガールジュナの立場 |
梯子の役割 | 言語の限界を示すための道具 | すべての固定観念を打ち破るための方便 |
捨てる目的 | 限界の向こう側(価値・神秘)を沈黙によって守るため | 限界という概念そのものを空じるため |
捨てた後に残るもの | 「示される」聖域と、それに対する「倫理的態度」 | 何も残らない(聖域も、捨てる主体も、立つ大地もすべてが空) |
思想のゴール | 言語の暴走を防ぐための節度と明晰性 | あらゆる戯論(概念的対立)からの寂滅(解放) |
結局のところ、ヴィトゲンシュタインにとって境界線は、言語の暴走を防ぐために「引かねばならない必要な虚構」であった。対してナーガールジュナにとって、その境界線を引く行為自体が、乗り越えられるべき「仮の方便」に過ぎなかったのだ。この決定的な態度の違いは、二人が最終的に行き着く「沈黙」の意味にも、深い隔たりをもたらす。
5. 結論:二つの誠実さ——境界を引く知性と、境界を空じる知性
ヴィトゲンシュタインとナーガールジュナは、異なる道筋を辿りながら、最終的にある種の「沈黙」へとたどり着いた。しかし、その意味するところは全く異なる。ヴィトゲンシュタインのそれは、語り得ない価値の領域を尊重するための**「節度ある沈黙」**だ。一方、ナーガールジュナのそれは、ナーガールジュナ自身の言葉を借りれば、「あなたの沈黙は、限界の手前で立ち止まる節度。私の沈黙は、限界という概念すら手放した後の静けさ」なのである。
この対話の核心を突く本質的な統合として、討論のファシリテーターが下した最終的な評決はこうだ。「どちらも、言語を絶対化しないための、異なる種類の誠実さである」。この二つの誠実さは、現代を生きる我々に重要な示唆を与えてくれる。
- 境界を引く誠実さ: 語るべきこと(事実)と、実践によって示すべきこと(価値)を区別するヴィトゲンシュタインの知的規律は、科学万能主義への戒めとなる。人生の意味のような問いに対し、科学的言説とは異なるアプローチが必要であることを教えてくれる。
- 境界を空じる誠実さ: 我々が自明視する対立や概念そのものが我々を縛る牢獄である可能性に気づかせるナーガールジュナの知的勇気は、あらゆる独断論や原理主義への解毒剤となる。自らの信条が絶対ではないと知ることは、他者への寛容さを生む。
この哲学的な対話は、どちらかの思想に軍配を上げるためのものではない。その終着点でヴィトゲンシュタインが漏らした「私の梯子を登りきり、それを蹴倒した後に広がる風景——それこそが、あなたの言う『寂滅』なのかもしれません」という言葉は、西洋の論理が東洋の空に出会った瞬間の、謙虚で詩的な残響だ。そしてナーガールジュナは、この邂逅そのものですら、互いを条件として生じた**「縁起」**の現れであると静かに結んだ。
言葉の崖の前に立つのは、彼ら二人だけではない。言葉と共に生きる、私たち一人ひとりなのである。科学的明晰性の地図を手に、私たちはどこに境界を引き、何を語るのか。それとも、その地図と大地そのものが絶対ではないと悟り、あらゆる境界から自由になるのか。あなたは、その崖から何を見、何を語り、そして何を沈黙するのだろうか。
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